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(その8)

  阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君臨した嗣徳帝は、詩人であり哲学を好んだが、しかし統治能力に欠けていた。彼はヴィエトナムが西洋の帝国主義に直面した困難な時期に王位に就いたが、彼に嫡子がいなかったことはさらに状況を悪化させ、彼を厭世的にしていった。そうした彼は、隠居して詩を詠む仙境とするべく陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。

 嗣徳帝陵(1864〜1867年造営)も陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれる。南の努謙門を入り、敷地の東半を占める謙湖に沿って行くと湖に臨んで廟である謙宮が建つ。段台状テラスを上り宮門を入ると、そこには3つの中庭を囲んで和謙殿をはじめ9つの殿閣が並ぶ。その一角には鳴謙堂という小劇場も設けられた。謙湖に浮かぶ中島には3つの亭が建ち,また湖畔には愈謙射と沖謙射のふたつの台射が乗り出す等、中国の離宮に見られる典型的な構成である。陵は謙宮の斜め後方にあり、謙湖から引いた小謙池を前に拝庭、碑亭、石室が並ぶ。また、陵内には儷天皇后や養子の建福帝の陵も置かれている。

 嘉隆帝から嗣徳帝までの4陵は専制支配を反映して非常に大規模なものであった。しかし,阮朝が実権を失って後の皇帝陵は規模が縮小或いは父祖の陵内に棺が置かれるだけで、唯一啓定帝陵のみがその絢爛さで先達に匹敵しえた。

 他の陵がほぼ香江に沿って配置されているのに対して育徳帝陵は王宮の正面から2km、御屏山の前に建つ。二重の周壁に囲まれた育徳帝と皇后のふたつの石棺と、少し離れて隆恩殿を中心とした廟からなる育徳帝陵はきわめて質素なものである。嗣徳帝の養子で指名後継者であった育徳帝は即位後3日で権臣により廃立処刑された。彼の陵はその6年後仏支配下に皇位に就いた息子の成泰帝によって1890年に造営された。その成泰帝は息子維新帝とともに1916年対仏反乱を企て、アフリカ・レユニオン島に流謫るたくされる。彼等の死後、成泰帝は1954年、維新帝は1987年に祖父の廟の背後、埋葬された。現在隆恩殿には祖父、父、子の三人の皇帝が奉られ、成泰、維新の墓の両脇には彼等の家族の墓が並んでいる。

 同慶帝は在位3年にして25歳の若さで崩じる。彼の陵は次の成泰帝によって1889年に造営され、後に息子の啓定帝により何度かの改修増築が行なわれた。同慶(ズクドゥク)帝陵の構成は規模に違いはあるものの紹治帝陵とよく似ていて、陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれる。陵は3重の周壁に囲まれた石屋と前面の段台状テラス・碑亭・拝庭からなるが、フランス風の碑亭は次の啓定帝陵への前兆といえよう。廟の中心の凝禧殿はおそらくフエに現存する唯一の三棟造りの宮殿建築である。その質素な外観とは反対に、凝禧殿の内部は朱あるいは金に塗られ、様々な装飾が施されている。また凝禧殿には帝とふたりの皇后が奉られる他、彼の好んだ香水などの舶来品が展示されている。これら陵・廟は何れも前方に香河を臨む丘の上に建ち、特に陵からの眺めは素晴しい。

 啓定帝陵(1920〜1931造営)は配置構成だけを述べると急勾配の大規模な段台状テラスに拝庭・碑亭・廟を配したコンパクトなものである。明命陵以来のひとつのコンプレックスにまとめられた陵は,しかし,明命陵のような大庭園は持たず、フランスのバロック様式で過剰なまでに装飾された。特に廟である天定宮は、鉄筋コンクリートの駆体にスレートの屋根を葺き、内外の壁面や付け柱を漆喰細工あるいは陶片で造られた多彩な龍のモザイクで飾るなどして、驚くべき折衷様式を造り出している。入口の階段から見上げるそれは圧倒的でさえある。覇王嘉隆帝の実権を失った末裔がフランス趣味で造った瀟酒な陵墓、啓定帝陵。しかし、これは間違いなく今世紀で最も重要なべトナム建築のひとつであろう。

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