(その2)
阮朝は、1802年から1945年まで続いたベトナム最後の統一王朝である。ベトナムは939年、千年におよぶ中国支配から独立して以来、李朝(リ、 1010〜1225)・陳朝(チャン、1225〜1400)・黎朝(レ、1428〜1786)と各王朝が続いたが、黎朝の1527年(統元六年)権臣莫登庸(マクダイズン)によって王位が纂奪されると、黎王を奉じた旧臣阮淦(グエンキム)の一党との間に内乱が起こる。阮淦の死後、黎朝の実権を握った鄭檢(チンキエム)に、その武功により忌まれた阮淦の第二子阮黄(グエン・ホアン)は、自ら当時辺境であったフエの鎮守を請願し許される。
1558年(正治元年)一族郎党を引き連れてフエに入った阮黄は、鄭氏の対莫氏戦に協力すると同時にフエでの勢力基盤を固めた。その後を継いだ阮福源は鄭氏と袂を分かち独立する。これ以降、黎朝は名目的には続くものの、北方の鄭氏と南方の阮氏の二主並立の時代となる。彼等の一統はそれぞれ鄭主、阮主と呼ばれる。鄭阮両主はしばらくは衝突を繰り返したが、1672年(嘉宗陽徳元年)の休戦以後は広治(クワンチ)の■江(ソンザン)を境として約100年、南北間の平和が保たれる。一方で歴代阮主は南方のチャンパ王国の地を徐々に侵し、第6代阮福■(1691〜1725)の時代にはメコンデルタまで達する領土を獲得する。この時期の阮主政権を広南(クァンナム)朝ともいう。
この均衡が崩れたのは1773年(景興三十四年)、阮主の圧政に対して帰仁(クイニョン)の西山阮(タイソングエン)氏三兄弟による反乱(西山党の乱)が起こると、それに乗じた鄭主は軍を南下させフエを占領。阮氏は南部の嘉定(ザディン)に逃れるが,鄭主と結んだ西山阮氏により阮福映(グエン・フックアイン)を残して全滅する。西山阮氏はその後、鄭軍も・討ち南北を統一するものの、やがて一族内の対立から阮氏一党に反撃の余地を与えてしまう。阮福映は初めタイに頼り、後にフランス人義勇軍や華僑の助力を得て嘉定を拠点に反撃を始める。1799年までにベトナム南半を回復、1801年フエを奪還、翌年即位し年号を嘉隆(ザロン、在位1802〜1819)とした。その後、さらに北進してベトナム再統一を果たした嘉隆帝は、諸制度を整備するとともにフエを国都と定め都城を造営、外にはカンボジアを保護国とした。30年の苦闘を経て偉業を成し遂げた嘉隆帝であるが、その過程でフランスの宣教師と義勇軍の助力を仰いだことが後のフランス進出の起因ともなってしまった。
次の明命帝(ミンマン、在位1820〜1841)から紹治帝(ティエウチ、在位1841〜1847)にかけて阮朝は最盛期を迎える。明命帝は国力の増強を図る一方で、国史館を建て文芸を盛んにし、中国や西洋諸国の情報収集・技術移入を進めた。タイ、カンボジア、ラオスとは積極的な外交を行ない、しばしば兵を派遣。農民反乱も多かったようである。この時期、インドの覇権をイギリスに奪われたフランスは矛先をインドシナに転じ、ベトナムに対して再三通商条約の締結と宣教師の保護を申し入れる。明命帝はそれを拒み、逆に外国人の通商を厳しく規制、キリスト教を排斥、各地の港に要塞を築く等の政策をとったため、対仏関係は急速に悪化してゆく。
嗣徳帝(トゥドゥック、在位1847〜1883)下の1858年、フランスは開国を迫り、ダナン以下各地の要塞を攻撃、翌年までにサイゴンを占拠。1862年、メコンデルタの一部割譲・カトリックの布教・各港での通商等を認める条約が結ばれる。フランスは引き続き1867年にメコンデルタの南半を占領、1882年にはハノイを陥しいれる。その後、フランスによるベトナムの保護国化に反発した清の介入と嗣徳帝の崩御で政局は混迷化。皇位を継いだ育徳帝(ズクドゥク)は排仏派の権臣阮文祥・尊室説等によって在位3日にして廃立、次に立てられた協和帝(キェップホア)も4ヵ月後幼い建福帝(キエンフック)に挿げ替えられる。しかし、その混迷の中フランスはベトナム北部で清軍を破り、1885年ベトナムを保護国とする。これ以後、阮朝は存続するものの、実権はフランスが握り事実上植民地となる。早世した建福帝の後を継いだ咸宣帝(ハムギ)は1885年フエを出奔、紳豪を率い仏軍に対してゲリラ戦を展開するが(文紳の乱)、1888年には捕えられアルジェリアへ流謫される。
咸宜帝の出奔後フランスは新たに同慶帝(ドンカイン、在位1885〜1888)を立て、王朝の機構を形だけは残したまま、旧官僚や土豪を使って巧みに植民地経営を行った。皇統は成泰帝(タインターイ、在位1889〜1907)、維新帝(ズイタン、在位1907〜1916)、啓定帝(カイディン、1916〜1925)、保大帝(バオダイ、1926〜1945)と続く。成泰と維新の両帝は第一次大戦中の1916年反乱を企てるが,捕えられアフリカのレユニオン島に流謫される。第二次大戦後退位した保大は香港に亡命、1997年にフランスの地で没した。
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