(その7)
フエの建築中、最も興味深いものは歴代の皇帝陵であろう。都城の南西方に広がる丘陵地帯には阮朝歴代皇帝の陵墓が点在する。それら嘉隆・明命・紹治・嗣徳・育・同慶・啓定の7つの皇帝陵は、各々が建築的に独創性を持つだけでなく、総体として阮朝の歴史的な流れをも体現化している。
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、拝庭はいてい・碑亭ひてい・段台状テラス・廟殿・円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋、の5つの要素から構成される。拝庭には左右に侍衛の石形や石象石馬が並び、円陵や石屋は多くの場合前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴う。これらは明・清代に確立された中国の陵制に使われる諸要素である。しかし、中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画したため、共通の要素を持つにもかかわらず各皇帝陵は驚くべき多様性を見せる。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
各陵は王宮に比べると比較的保存状況が良く、また表面的なものではあるが整備も一通り行なわれているため、かなり見応えのあるものとなっている。
王宮から香河を舟で15kmほど遡り、左岸を南に歩いて30分行くと、初代皇帝の嘉隆帝陵(1814〜1820造営)がある。段台状テラスの奥に壁に囲まれて嘉隆帝と承天皇后のふたつの石屋の並ぶ荘厳な陵は、月湖と呼ばれる龍形をした湖に臨んで、影壁の役割をなす南の天授山に正対する。陵の左右には碑亭と廟屋が並び、陵の正面天授山の下には2本の花表柱が立つ。また北西方には同じく月湖に臨んでもうひと人の皇后順天の陵と廟があり、さらにその北方、香河側には嘉隆帝の家族や過去の阮主などの陵と廟が多数建ち並ぶ。周りをひろく36の峰に囲まれて境界もなく自然と一体化した嘉隆帝陵は、その計画の元となっている風水や陰陽の世界観とは別に、亜熱帯の原野の中に溶解するような混沌としたイメージを強く抱かせる。
これに対して7つの陵のうち最も調ととのった構成を持つのが明命帝陵(1840〜1843造営)である。周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と主要な建造物が一直線に並ぶ。これは明や清の陵制を忠実に真似たもので、大紅門や崇恩殿、明楼の名もそのまま使われている。しかし、その陵制が表わす厳格な秩序とは別に、その背景として改造された敷地は、主軸の左右を澄明湖と名付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂に各々楼閣を建てる優雅なものである。王国の積極的な設計者であった明命帝は、この陵においても厳格である陵と優雅な大庭園をひとつに融合させることを試み、それは見事に成功した。この長大なコンプレックスの中では、門を抜けたり楼に上ったりする度に、訪問者の目の前に新たなパノラマが開け、徐々に深い懐ふところに抱かれるように進んでいく。しかし帝は、1841年惜しくもその完成を見ることなく落馬が原因で亡くなってしまう。
第3代紹治帝は治世7年目、陵の造営に着手する前に崩じ、それは紹治のプランに従って息子の嗣徳によって1848年に造られた。明命陵において一つにまとめられた各要素は、紹治帝陵でふた2つのコンプレックスに分割される。ひとつは拝庭・碑亭・徳馨楼・円陵からなり、前面に月形の潤沢湖、横に凝翠池を構える。これは明命ミンマン陵のコンプレックスから中央の段台状テラスと廟を除いたものにほぼ等しい。テラスと廟は南西100mほどの所に平行する別のコンプレックスを作っている。明命陵のような周りを囲む牆壁もなく森林の中に長閑のどかにたたずむ紹治陵は、次の嗣徳陵への過渡的な存在である。
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