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(その6)

南郊壇,文廟,天姥寺
 王宮のある北岸から香河を越えて南に4kmほど行くと、南郊壇(ダンナンジャオ)と呼ばれる天壇がある。周壁と松に囲まれた10haの敷地の中央に位置する天壇は、磚積みの3段からなり、下段と中段は一辺がそれぞれ135m、80mの方形、上段は直径40mの円形。円形は天を表わし、方形は地を表わすと云う。高さは各80cm、各段には石の欄干を回し、かつては下から赤・黄・青に塗られていた。四方から階段が上り、中段には8つの小祭壇が配される。天壇とは天を祭る祭壇であり、天の子である皇帝のみが儀式を行なうことができた。阮朝においては毎年春の三吉日を以て執り行われた。中国古来の「天円地方」の宇宙観や陰陽五行の思想に基づいたその計画は、天を象徴する円や陽を表象する奇数を多用し、敷地の北東に神倉・神廚、西南には祭祀の前夜皇帝が身を清めるための斎宮を置く。

 前述の様にフエの都城と王宮は清の北京城および紫禁城をモデルとして造られているが、それは宮殿建築だけでなく、その背後に潜む宇宙観をも含めた都市の全体計画にまでおよんでいる。清の北京城は南端に城の南北主軸を挟んで天壇と先農壇が、紫禁城の前面には同じく太廟と社稷壇が並び、紫禁城の背後には景山(人工の小山)・鼓楼・鐘楼が続く。フエの都城は背後の景山などは持たないものの、前方に天壇と影壁えいへきの役を果たす御屏山(ごびょうざん)を持ち、紫禁城の前面に太廟と世廟の二つを構え、都城の南西隅と北西隅にそれぞれ社稷壇と先農壇を設けている。このことから「皇帝の都」として十分な舞台装置を備えているといえるであろう。ここに南の中華帝国を目指した嘉隆帝の強い意気込みが窺える。 

 社稷壇とは土地と五穀の神を祭る祭壇である。2段の方形の壇で、壇上には中央に黄、東方に青、南方に赤、西方に白、北方に黒の五色の土が敷かれた。史書には嘉隆帝はベトナムの各地から浄潔な土を貢がせてこれを造ったとある。春夏秋冬の4度儀式が催された。

 また中国では各府県に孔子を祭った文廟があるが、阮朝においても文廟は重く扱われ、ベトナム統一の後嘉隆帝がまず行なったのは太廟を旧皇城の左に建てることと文廟に詣で秋祭を行なうことであった。フエの文廟は古来のものを1808年(嘉隆七年)に京城の西、香河に臨む今の場所に移築。以来明命紹治両帝により拡大され多くの殿・楼・門を持つに至り、毎年春祭秋祭が盛大に催されたが、現在は門と石碑が残るのみである。

 文廟の手前、少し都城寄りには天姥(ティエンムー)寺がある。伝説によれば昔、現在寺の建つ丘に毎晩現われる不思議な老女が「王が現われて国家の繁栄のために仏寺を建てるだろう」と予言し、それを伝え聞いた初代阮主の阮■が早速寺を建立したといわれる。以来この寺は歴代の阮主・皇帝により修築増築を繰り返してきた。香河に乗り出す様に建つ7層の福縁塔が印象的である。

 嘉隆ジャロン帝はその治世5年目(1806)の2月南郊壇を建て、自ら文廟に詣で春祭を行ない、3月には社稷壇を建て、そうして5月改めて太和殿で「皇帝」の位に就いた。

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南郊壇
南郊壇

文廟
文廟

天姥寺
天姥寺

天姥寺
天姥寺

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