(その3)
フエは古くはチャム族の土地であったが、北方のヴェト族の国大越との境にあるため、双方の勢力の消長に従って支配権の移動が繰り返された。しかし、 1470年(洪徳元年)黎朝の聖宗の大遠征からは常に大越に帰属。1558年(正治元年)、阮黄(グエン・ホアン)が鎮守に就いた後は代々阮主の治めるところとなる。阮黄の治所は初め広治(クワンチ)付近の葛営に置かれたが、次の阮福源のとき広田県福安社に移され、さらに次の阮福瀾によって香茶県金龍社に移された。
1686年(正和八年)王統を継いだ阮福湊(グエン・フック・チャン)は富春社に新府を建てる。これが富春城(フースアン)で現在の都城の東南隅に当たる。福湊は新府を建てるのに特に風水に基づいて土地を探し、南に御屏山が相対するこの地を選んだ。城壁に囲まれた王宮が造られ、その前に大池が掘られた。また彼は香江上流の治水工事も行ったという。
1757年(景興十八年)には阮福濶(グエン・フック・コァット)によって規模が拡張されるが、この時初めてフエは都として整備され、「都城」と呼ばれるようになった。王宮には金華殿や光華殿を始めとする数多の宮殿が軒を連ね、中でもひときわ高い朝陽閣からは香江をよく見渡すことができた。また、その後ろには方池や曲池を中心に釣台・築山や奇石を配した中国風の庭園が設けられ、それらを囲む二重の壁には龍虎麟鳳の聖獣や草花の装飾が施されたという。碁盤状に区画された都城内には軍舎や官舎が並び、城外には市街が連なる。香江には漁船や商船が行き交い、その上流には離宮も置かれた。その様はまさに一大都会を為していたと伝えられる。
その大都会も1774年(景興三十五年)鄭軍の侵略を受け、間もなく西山党の阮岳によって占領されてしまう。1801年、フエを奪還した阮福映(グエン・フック・アイン)は一旦城を修築するが、その後全土を掌握し越南国王(嘉隆帝)として即位した彼は、1803年(嘉隆二年)ベトナム全土の都として誇るべく都城の大規模な増築を始めた。
旧都城の背後を流れていた香江の2本の支流が埋め立てられ、香江の北岸500haを超える土地にほぼ正方形を為す都城(史料では京城と称される)が計画された。そこでは中国の伝統的な都市計画を踏襲する一方で、フランスの影響を受けヴォーバン式の城壁が用いられている。周長10kmにおよぶ城壁は、高さ6.6m厚さ21mの重厚なもので、四面に400基の大砲で武装した24の稜堡(りょうほ)を備え、鋸歯(きよし)状に廻る。そのうち正面中央の稜堡は3層の旗台(きだい)となっていて、マストの頂には皇帝の旗が翻る。また城壁の北東角には鎭平臺(チャンビンダイ)と呼ばれる砲台が張り出し、河口から香江を遡ってくる外敵に備えている。各稜堡の間には10ヵ所に門が通り、各々に2層の監視塔が設けられている。城壁の外には幅23mの濠が廻らされ各門からの石橋で外と結ばれているが、その外側にはさらに護城河(ホタインハ)と呼ばれる香江から引かれた幅40mの濠が廻り幾重もの防衛線を形成している。護城河は都城の左右両面から各々城内に導かれて武庫に達するが、その水路を御河(グーハー)という。
城内は、日本の京都の町並と同様に縦横に走る街路によって95の坊に区画され、各坊には王宮の他、六部・機密院などの政府機関、慶寧宮、保定宮、浄心湖などの離宮あるいは官僚以下市民の住宅が配された。それらの施設も現在は浄心湖など幾つかが残るだけで、王宮背後の城内は小住宅と畑に占められている。
大量の労働力と時間を要するこれらの土木工事は次の明命年間にようやく完成する。
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